水道技術者 小野基樹(1886-1976) の人と仕事− Webサイト掲載ドキュメントから


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■日本の川と災害>日本の川 >多摩川水系>小河内ダム
掲載者 kasen.net 河川ネット
掲載年月 2000/08/15
URL  http://www.kasen.net/@3/tamagawa/ogouchi/ogouchi.htm URL updated 2004/11/10
備考  現地説明板の記載内容が収録されています
小河内貯水池のしおり
 小河内貯水池は、戦前に工 事を開始し、戦争による工事 の中断もあって、完成までに は二十年という長い年月を費 やしました。
 完成までの経過をかえりみ ますと、昭和七年に多摩川の この地点にダムを築き、その 貯留水を東京の水道水源にし ようとする計画が、当時の東 京市会で決定されたのです。  そのころ東京市の発展はめ ざましく、市民の水道使用量 は、年々増加していましたの で、大東京実現のために、欠 くことのできない水道の基本計画として打ち立てられたものです。
 この計画によって、旧小河内村(現在の奥多摩町の一部)の大部分と丹波山村、小菅村の一部が湖底に沈むこ ととなったため、村民への移転補償が最大の問題となりました。しかし、小河内村村長であった小沢市平氏の大 英断によって、関係村民のご理解が得られ、また、ダム築造にともなう水利その他の問題についても、国および 神奈川、山梨両県ならびに東京電力株式会社の深いご理解とご協力によって、それぞれかなりの日時を費やしま したが解決し、昭和十一年七月に政府の事業認可が得られ、昭和十三年十一月から本格的工事に着手しました。
 しかし、そのころは戦時中でもあり、人員や資材の調達に極めて苦しみながら、でき得る限り工事を進めてき ましたが、戦争はますます激化するばかりで、ついに昭和十八年十月、やむなく工事を一時中止することになり ました。
 戦後、東京都の復興と人口の急増に、小河内貯水池建設工事の再開は欠かせないものとなりました。昭和二十 三年四月、東京都議会で事業再開が決定され、同年九月には建設工事を再開しました。  再開後は、戦後のきびしい国内経済情勢下にあって、資材やとくに資金の調達に苦しみながら工事は昼夜兼行 で続けられ、ダム工事のほとんどを終えた昭和三十二年六月には湛水を開始し、同年十一月、小河内貯水池の全 工事が完成をみたのです。
 小河内貯水池の建設工事は、八十七名もの尊い犠牲者を出したほどの難工事であり、技術開発や資金調達など にも数多くの難関がありましたが、初代の小野基樹建設事務所長、二代の佐藤志郎所長以下関係職員が、情熱と 英知を傾けて克服したものであります。
 この貯水池は、日量約四十二万立方メートルの新たな利水をはかる目的で建設したものですが、今日では本来 的な役割のほかに、夏の水需要期や利根川の渇水時に原水の補給能力をいっそう高めるため、小河内ダムの放流 施設が増強されましたので、多摩川と利根川の相互融通がはかられて、安定吸水のきめ手となる重要な役割を果 たしています。
 小河内貯水池竣工二十五周年にあたり、地元村民ならびに建設に関与された方々に、深い敬意と感謝の意を表 するとともに、殉職されました方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
 昭和五十七年十一月 東京都水道局


■多摩川流域リバーミュージアム>多摩川電子図書館>多摩川誌
掲載者  国土交通省京浜河川事務所 河川環境課 多摩川流域リバーミュージアム事務局
掲載年月 2001/12/20
URL  http://www.tamariver.net/jouhou/tamagawashi/parts/text/044131.htm
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第4章 小河内ダム建設と水利紛争
第1節 小河内ダム計画
1.3 用地買収と補償問題
1.3.1 発端と事業認可の遅延による当惑
 1931年(昭和6)6月にダム建設の計画が発表されると,貯水池となる小河内村,丹波山村,小菅村の関係村民は,この計画について一時こぞって反対した.ここは古くから独特の地方文化を有し,人々は貧しいながらも先祖伝来の土地を守ってきた.墳墓の土地を離れることには大きな不安があった.しかし滅私奉公の風潮,国家のため,皇都東京のため,という説得に,当時の純朴な村人は純粋な自己犠牲の精神を発揮し,涙をのんでダム建設を承諾して故郷を離れることにしたのである.当時の小河内村長小沢市平は,小河内村を犠牲に供する覚悟を定めたその発端を「小河内村報告書」(参4)の中で次のように書いている.

 「東京市水道局長原全路氏および拡張課長小野基樹氏相つれて,昭和6年夏村役場に余を訪づれ,両氏交々述ぶるところは,『東京市は水に困難しているが,どうであろう,この際是非ともこの村に貯水池を造らせてもらいたいものである』と,(中略)余は急きょ,飛脚を各部落に飛ばし,議員諸君に鶴屋に集ってもらったのであっ た.


■多摩川流域リバーミュージアム>多摩川電子図書館>多摩川誌
掲載者  国土交通省京浜河川事務所 河川環境課 多摩川流域リバーミュージアム事務局
掲載年月 2001/12/20
URL  http://www.tamariver.net/jouhou/tamagawashi/parts/text/044132.htm
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1.3 用地買収と補償問題
1.3.2 交渉の経緯
<前略>
 小河内村も村長以下村会議員等9名が,白たすきをかけて上京,「目的貫徹までは帝都を去らずと覚悟して」3月14日 以降,市長等市の理事者と交渉を重ね一時は決裂寸前のところまでいったが,3月27日に村側から要求のあった地域外村 有林200町歩を買収する件などについて市側が諒承し,また3月29日に市側からの提案,すなわち,村及び村民に対する 補償として,別個に小河内村532戸に対して更生資金50万円と,村の公共諸費充当のための3万円,合計53万円を支出す る,という案に対して村側が受け入れるというお互いの歩み寄りもあって,永い年月にわたり紛糾を重ねた問題もようや く妥結の兆しが見えてきた.この交渉結果に対し,村長及び村の首脳部は村内の小河内貯水池対策委員会の議に付し,同 委員会もこれを承認したので,これに関する覚書の正式調印をようやく6月6日に,府下氷川村の水道局小河内貯水池建設 事務所で行う運びとなった.

 この日,所長室に市側は小橋市長代理小野所長,片岡庶務課長,小河内村は小沢村長,小沢書記,原島正国村会議員が 会同し,午前11時15分,談笑裡に調印を終え,久しき紛争もここに大団円を見るに至ったのである.


■多摩川流域リバーミュージアム>多摩川電子図書館>多摩川誌
掲載者  国土交通省京浜河川事務所 河川環境課 多摩川流域リバーミュージアム事務局
掲載年月 2001/12/20
URL  http://www.tamariver.net/jouhou/tamagawashi/parts/text/044311.htm
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第3節 小河内ダム完成とその機能
3.1 小河内ダム建設工事の経過
3.1.1 戦前の工事経過
(1)起工式
 1936年(昭和11)7月23日ようやく小河内ダム建設にかかわる事業認可を受けると,東京市はすぐさま小河内 貯水池建設事務所を開設して用地買収や工事の準備にとりかかった.また東京市小河内貯水池技術委員会を設け て,ダム建設に関する技術上の重要事項を調査審議することとした.この委員長には元内務技監中川吉造,委員 には東大教授物部長穂(構造),同地震研究所長石本己四雄(耐震),東大教授永井彰一郎(セメント),同山 口昇(土質),石井頴−即(ダム,小牧ダム建設者),東京府土木部長吉岡計之助,東京市助役近新三郎,水道 局長原全路,小河内貯水池建設事務所長小野基樹,その後,石井頴一郎辞任により神原信一郎,後日任命された 東大教授吉田徳次郎(コンクリート),水道局長高橋甚也という当時の斯界の錚々たる顔ぶれで構成され,わが 国で前例を見ない大ダム建設に際しての重要な諸問題を審議することになった(参2).

 ダム本体工事に先立って,まずダム地点までの工事用道路を完成させ,工事もいよいよ活況を呈し始めたころ の1938年(昭和13)11月12日,奥多摩の紅葉ひとしお色濃き中で,水根沢のダム建設予定地に700名の来賓を前 にしてダム建設工事の起工式がとり行われた.神事の後に小橋東京市長の式辞,小野所長の事業経過報告があ り,続いて末次内務大臣,岡田東京府知事,土居山梨県知事,大橋東京府会議長,松永東京市会議長等来賓多数 の祝辞が述べられ,小沢小河内村長も  「小河内貯水池建設ノ事業ハ,其ノ発端ヨリ幾多ノ曲折アリシト雖モ,逐次ニ解決シニ盛大ナル地鎮祭執行 ノ運ビトナリシハ誠ニ慶賀ニ堪ヘズ.此ノ間ニ於ケル市当局ノ努力ニ対シ深甚ナル敬意ヲ表ス.小河内村ハ尚ホ 東京市ニ望ム所無キニ非ザレドモ,徒ニ抗争ヲ事トシ,帝都六百万市民ノ生活ヲ脅カスノ不可ナルヲ自粛自戒 ス.殊ニ時局益々重大ヲ加ヘ,国家総力戦ニ邁進スベキノ秋ナルニ鑑ミ,決然小我ヲ棄テ大我ニ就キ円満解決ノ 方途ヲ選ビシナリ.(以下略)」 と感慨深く祝辞を述べた.式が終わってテントの中では時局柄にふさわしい質素な祝宴が催され,さらに式場対 岸の断崖での大爆破作業を観覧し,かくてこの大工事へのスタートを切ったのである.当日の新聞は次のように 報じている.(写真4.4.18 起工式で祝辞を述べる小沢村長)

 「帝都の奥庭,奥多摩の最奥小河内,丹波山,小菅3ケ村にまたがる649戸,3,909,242坪を湖底として生れる 人造大湖水,小河内貯水池築造工事の地鎮祭は,12日堰堤築造地点の水根沢に設けられた式場で,官弊中社大国 魂神社猿渡宮司祭主となり,極めて荘厳に挙行され(中略),過去7ケ年に亘って生みの悩みを続け来った小野所 長,三千村民の利害を一身に背負って関係方面に交渉を重ねて来た小河内の老村長小沢市平氏の面上も喜びあふ れ,この盛儀を見んものと集った村民らも一村離散の哀愁も消し飛んで,帝都六百万市民の生命線である水の護 りの犠牲を甘受して真に喜びに堪えぬものの様であった.(中略)かくてこの荘厳な幕は正午終了した.式場に 残された日の丸の旗に夕暗が寄る頃,湖底の村には一つ二つ三つと灯火がきらめいた.初冬の寒さにヰロリを囲 んだ村民達は,新たなる天地に第一歩を踏出す決意のほぞを一層かためたのであった.やがて人類科学の粋を蒐 めた世界第四の大ダム工事の響きがこの山渓に交響楽を奏でるであろう」(昭和13.11.12. 読売新聞)

 こうしてダム建設へと全面的に工事にとりかかっていったが,工事関係者の意気込みも大変なもので,戦時下 の日本の国威宣揚を示す1つとして,紀元2600年の昭和15年(1940)に開催予定の第3回世界大ダム会議をぜひ東 京で開催して,この小河内ダム工事を世界の技術者に見せてやろうという話もあったほどである.

(2)準備工事
 ダムの本体工事の着手に先立ち,工事現場へ資材を運搬する輸送路の確保が必要なため,青梅街道古里村,氷 川村間の拡幅整備を行うとともに,1937年(昭和12)早々には氷川村から工事現場に至る約3kmの区間の工事専 用道路の建設が始められた.これは在来の道路とは別に,幅員6m,平均勾配1/30でトンネル7本,橋梁3個所を含 むもので翌年9月には開通をみた(参14).

 ちょうどこのころ,小河内村を探訪した大宅壮一は「中央公論」(昭和12年8月号,前掲)に「水底の小河内 村」と題してルポをのせているが,工事の始まった模様を次のように生々しく書いている.
 「これ(氷川)から先は道が狭く,1台に運転手とも4人しか乗れない小型バスが通っている.道は左手に深い 渓谷を見下しながら,断崖に沿うて走っているが,その断崖の急斜面に,新しくバラックが,まるで鷲の巣のよ うに,まばらになっている.それは労働者の飯場で,小河内村貯水池に通ずる水道局専用道路の工事がすでに始 まっているのである.その道路は,甲州への裏街道である現在の道よりも遥か高い所を走っている.(中略)( 写真4.4.19 工事用道路の建設状況,檜村橋の架橋状況)
 しかし付近の風景は素晴らしい.山は高く,谷は深く,遥かに見える枯れた川底に,流材が割箸のように漂う て,釣糸をたれる人影は,盆景の人形のようである.
 折からの夕立模様の暗い空の下を行くこと20分,両方の山が自然の門のように迫っているところで,車がとま った.運転手の説明によると,これが水根沢といって,貯水地の咽喉となるところである.  なるほど,両側に屹立している山肌の所々に,測量の旗が立ち,標高の数字が横板に白く記されている.一番 高いのが530mで,それがうんと築かれる堰堤の高さを示し,その下の500mとあるところまで水に浸されるのであ る.(中略)(写真4.4.20 道路工事のための掘削)
 この付近の遥か高い山の一角がきりひらかれて,幾棟かの飯場や建設事務所が並び,巨大な機械や材料がどっ さり搬入されている.現在世界一といわれるアメリカのフーバー・ダムに使用したものが,続々ここに運ばれて くるのだという.

 これから先に進むと山はいよいよ高く,谷はますます深く,景色はさらに美しくなる.いつか夕立模様の空は 晴れて,急斜面を見事に耕した畑の間に点綴する民家の上を白い霧が這っている.(以下略)」

 鉄道についていえば1929年(昭和4)以来,青梅鉄道(現在の国鉄青梅線)は御岳駅が終点であったが,当時 日原方面で産出する石灰石を青梅鉄道,南武鉄道,鶴見臨港鉄道の3既設線を経由して京浜地区に送ることを主目 的として,御岳駅から氷川村間約10kmに電気鉄道を敷設する計画があり,このために奥多摩電気鉄道株式会社が 設立され,1938年(昭和13)11月に工事認可を得て事業に着手するといった状況にあった.この鉄道延長はダム 建設の資材輸送にも多くの便益があることから,東京市もその完成を待望していたが,この鉄道工事は資金繰り に行き詰まってしまったので,市は100万円の融資を行って工事の促進を助成し,時局がら資材の確保もままな らぬ中をようやくにして太平洋戦争のさなか1943年(昭和18)6月に開通の運びとなった(翌年6月に国鉄に合併 された).

 ダムの工事に当たって,どのような施工設備を備えるかは大変難しい問題であった.特に大量のコンクリート の生産と運搬に必要な自動骨材計量機械や超大型ケーブルクレーンについては,ともにわが国では経験がなかっ たためにアメリカの専門メーカーに発注する考えであった.しかし1936年(昭和11)にアメリカにおいて世界最 大を誇る Colorado 河の Hoover ダムが竣功したこともあり,小野基樹建設事務所長が国際大ダム会議出席の ため渡米した折に関係当局と交渉した結果,Hoover ダム建設工事に使用した施工設備の一部,(25tケーブルク レーン,骨材計量機,セメントサイロ,セメントポンプ,ドラグライン,削岩機など)を格安で譲り受けること に話がまとまり,しばらくしてアメリカ大陸 Colorado 河の大渓谷で活躍した重機械類が太平洋を渡ってはるば る奥多摩の渓谷にその姿を見せることになった.陸送の途中,そのあまりの大きさに沿道の見物人たちは腰を抜 かすばかりにたまげたという.(写真4.4.21 排水トンネル工事着手に際しての修ばつ式)  コンクリートの材料として必要な骨材(砂利,砂)は,ダム付近の山が良質の硬砂岩でできているため,この 山を爆破して崩し,現地に砕石工場を設けて岩石を適切な粒度に破砕し,それをふるい分けて人工の骨材を造る こととした.またそれに隣接してコンクリートを練り混ぜるために最新式のプラントが建設された.  一方,ダムの工事場所から河水をほすために排水トンネルを掘って本流を切り回し,またダムの基礎に当たる 部分の風化した地表面を取り除き,良質の岩盤を出すための掘削工事も進められていった.

(3)工事中止
 皮肉にも工事が進むにつれて,時局は深刻化の一途をたどっていった.1937年(昭和12)に勃発した日華事変 は次第に戦火を拡大して中国大陸全土に及び,やがて1941年(昭和16)12月には多くの国を敵にまわしての太平 洋戦争にふみ込んでしまう.小河内ダム工事は,資材運搬道路や排水トンネルも完成,ダムを造る機械類のすえ 付けも大略でき上がってようやく総合運転をしようとしている時期である.(写真4.4.22 小河内ダム地点左岸 )

 国のあらゆる努力が戦争遂行に向けられ,工事従事者の多くが軍関係の動員を受け,また各種の資材はすべて 国の管理下に入り,しかも統制が強化されて工事のために必要な鋼材,セメント,ガソリン類などほとんどのも のが手に入り難くなってきた.東京市長は帝都の給水不足を放置することは許されないとして,商工省,企画 院,内務省,厚生省などに統制物資に対する配慮を懇請したが,事態はますます深刻化の度を増していった. 1943年(昭和18)3月のこと,当時水道局長小野基樹のところへ,突然海軍次官から電話がかかってきた.後に なって彼は次のように述懐している.「海軍基地強化のためダム工事に使用中の機械を供出しろといわれた.都 長官に伺ってからと返事する間もなく,長官には海軍から諒解を求めるといい,とりつく暇もなく,本当にこの 時は情なかった」,翌日からトラックに乗った水兵が現場に乗り込んで「海軍施設本部臨時出張所」の看板を掲 げ,ダム建設用として現場にあった主要機械類95点が徴用の通告を受け,また25tケーブルクレーン,砕石機な ど約40点は,海軍の要請で台湾総督府へ譲渡せざるをえなくなり,せっかくすえ付け終わったものを撤去せざる をえないという破目になってダムの工事続行は不可能となってしまった.

 さらに戦局は日増しに激しさを加え,しかも利あらず,東京も本格的な空襲に見舞われるようになった.国土 防衛の強化が叫ばれて防空対策が緊急に行われることになり,水道施設,特に村山・山口貯水池のダム(アース ダム)が爆撃に対して不安があるということで,急いで補強防護することになった.このために小河内ダムにあ った残り少ないすべての資材と要員を投じてこの防衛工事に当たることとなり,1943年(昭和18)10月5日つい に小河内ダムの工事はすべて中止という事態に追い込まれてしまった.(写真4.4.23 小河内村民防護団)

 中止当時のダム工事の進捗状況は,土地買収70%,物件移転74%,ダムの基礎掘削76%,施工設備90%,排水 トンネル100%,付替え道路49%といったところであった.


■多摩川流域リバーミュージアム>多摩川電子図書館>多摩川誌>参考文献
掲載者  国土交通省京浜河川事務所 河川環境課 多摩川流域リバーミュージアム事務局
掲載年月 2001/12/20
URL  http://www.tamariver.net/jouhou/tamagawashi/parts/chu/chu-044.htm
備考  「参考文献」の関連部分をリスト
5) 小野基樹:水到渠成−東京の水源・多摩川と共に六十年−;新公論社(1973)
7) 小野基樹:東京市水道拡張計画;水道協会雑誌第2号,P.29〜42,昭和8年(1933)1月
8) 小野基樹: 多摩川筋に於ける大貯水池堰堤地点に関する比較研究;水道協会雑誌第40号,P.27〜48,昭和11年(1936)9月
9) 小野基樹:小河内貯水池に就て;土木学会誌23-7,p.697〜701(1937)
10) 小野基樹:小河内貯水池の2,3の問題の解説;水道協会雑誌第333号,p.2〜5,昭和37年(1962)6月
17) 小野基樹:小河内貯水池計画に関し多摩川水利上の係争問題に就て;水道協会誌35号(1936)
34) 小野基樹:小河内内貯水池計画に関し多摩川水利上の係争問題に就て(続篇);水道協会第36号(1936)


■高知工科大学>Scene & Scenery(景観デザインの事例写真集)>ダム・堰>笹流堰堤
掲載者 重山陽一郎
掲載年月 2002/01/06
URL  http://www.infra.kochi-tech.ac.jp/shige/sceneandscenery/085/index.html
備考  写真18点
Scene&Scenery 085
笹流堰堤
北海道 函館市
 竣工:1923
所在地:北海道函館市
設計者:小野基樹
 規模:提高 25.3m
掲載紙:「建物の見方・調べ方 近代土木遺産の保存と活用」
 メモ:日本最初のバットレスダム


■土木パビリオン>近代土木遺産を訪ねて>笹流ダム
掲載者 社団法人 日本土木工業協会
掲載年月 2002/02/04
URL  http://www.dokokyo.or.jp/pavilion/isan/isanall/isan02/06.htm
備考  
笹流ダム[大正12年、昭和60年改修、北海道函館市]

端正でユニークなバットレス型式の水道ダム。当時高価であったコンクリートを節約する工夫から生まれた。
後に東京の小河内ダムを設計する小野基樹の設計。(JR函館本線函館駅・車20分)


■土木学会誌2002年3月号「土木紀行 笹流ダムと小野基樹」記事のモニター回答
掲載者 土木学会
掲載年月 2002/05/07
URL  http://www.jsce.or.jp/journal/moniter/200203/koe.htm#13
備考  同号の目次は http://www.jsce.or.jp/journal/moniter/200203/index.htm
    記事『土木紀行:笹流ダムと小野基樹−エンジニアが送り続けたメッセージ、著者 畑山義人』【pdf 270kb】
自らの残した作品(と言っても過言ではないでしょう)を常に省みる、そして効果的かつ具体の改善方策を研究・提案するという姿勢に感銘を受けた。同時に、そのような関わりを保てる作品との出会いに羨望を感じる。(国土交通省 片山壮二)

技術者にとって本当に学ばなければ成らない姿がここにあると感じた。文末にあるように生涯責任と誇りを持ち必要に応じて情報を発信するという当たり前の姿勢を持ち続けなければならないことを痛感させられました。身が引き締まる思いです。(五洋建設(株) 檜山博昭)

コンクリートの剥離剥落、補修、リニューアルが注目されている昨今でありますが、20年も前に、そのようなことを見越して、行動を起こしていた人がいたということは、ある種、驚きでした。立場を越えてでも、必要なことは提起していこうとする気持ちは、とても大切なことだと思います。(大成建設(株) 町田 晋)

ひとつの構造物において、計画・設計・施工・補修という一連の作業を一人が全て担当できるという機会は現在ほとんどないと思われる。そのため自分が担当した構造物に対する責任感・愛情が昔より希薄になっているのだろう。心が引き締まるような文章だった。(関西電力 西川 亨)


■土木学会誌アーカイブス>第十巻 第四号 大正13年8月発行 (1924年)
掲載者 土木学会
掲載年月 2002/5/31
URL  http://61.199.33.80/Image_DB/mag/m_jsce/10-04.html
備考  
記事区分 論説報告
タイトル 函館市水道貯水池に築造せる中空式鉄筋混凝土堰堤
著者名  小野 基樹
ページ  739-761
容量   約2MB
リンク  http://61.199.33.80/Image_DB/mag/m_jsce/10-04/10-4-11532.pdf


■土木学会誌アーカイブス>第二十巻 第十二号 昭和9年12月発行 (1934年))
掲載者 土木学会
掲載年月 2002/5/31
URL  http://61.199.33.80/Image_DB/mag/m_jsce/20-12.html
備考  
記事区分 講演
タイトル 東京市水道山口貯水池堰堤について
著者名  小野 基樹
ページ  1555-1563
容量   404KB
リンク  http://61.199.33.80/Image_DB/mag/m_jsce/20-12/20-12-12293.pdf


■土木学会誌アーカイブス>第二十三巻 第三号 昭和12年3月発行 (1937年)
掲載者 土木学会
掲載年月 2002/5/31
URL  http://61.199.33.80/Image_DB/mag/m_jsce/23-03.html
備考  
記事区分 講演
タイトル ボールダーダム工事に就て
著者名  小野 基樹
ページ  213-224
容量   760KB
リンク  http://61.199.33.80/Image_DB/mag/m_jsce/23-03/23-3-12591.pdf


■土木学会誌アーカイブス>第二十三巻 第七号 昭和12年7月発行 (1937年)
掲載者 土木学会
掲載年月 2002/5/31
URL  http://61.199.33.80/Image_DB/mag/m_jsce/23-07.html
備考  
記事区分 論説報告
タイトル 小河内貯水池に就て
著者名  小野 基樹
ページ  697-701
容量   227KB
リンク  http://61.199.33.80/Image_DB/mag/m_jsce/23-07/23-7-12627.pdf


■農文協図書館>山崎不二夫文庫 全目録
掲載者 財団法人 農文協図書館
掲載年月 2002/8/22
URL  http://www.ruralnet.or.jp/nbklib/list/073yamazaki/02.html
備考  
登録番号 65181
分類記号 YF31-1-5
書名   水到渠成 〈東京水道の水源・多摩川と共に六十年〉
著者名  小野基樹・著
出版者  新公論社
出版年月日 1973


■近代化遺産 ろまん紀行>北海道函館市>笹流堰堤
掲載者 読売旅行
掲載年月 2002年11月3日
URL  http://www.yomiuri.co.jp/tabi/isan/articles/20021103sd01.htm ※リンク切れ
備考  
機能と安全性の「用・強・美」
 異国情緒あふれる函館の街を散策し、装飾を尽くした建造物群を見てきたからだろうか。仰ぎ見るコンクリートダムの素朴な構造が、心の琴線に触れた。
 階段を上り、堤頂の歩道に立つと、深い碧(みどり)をたたえた貯水池が目の前に広がった。紅や黄に染まった木々を映した水面(みなも)を、カルガモの親子がのんびりと滑っていく。振り返ると、整えられた緑地のかなたに函館山が浮かんでいた。
 この景観を支えているのが、垂直に伸びる扶壁(バットレス)と水平に走る横桁(けた)なのだ。そう気づいた時、あたかも宙を漂っているかのような不思議な感覚に襲われた。
 函館の水道創設事業は、1889年(明治22年)に完工する。横浜に次ぐ日本2番目の近代水道であった。
 『函館市水道100年史』を編さんした郷土史家の近江幸雄(ゆきお)さん(65)が解説する。 「北洋漁業の基地として栄える函館を目指す人々によって、水道の供給が追いつかなくなります。明治末からは断水が恒常的になり、消火用水にも事欠くほどでした」
 給水人口を増やす第2次拡張事業は、1917年(大正6年)に始まる。その主要施設が、亀田川の支流、笹流川を堰(せ)き止める笹流堰堤だった。ひっ迫した財政に加え、冬の間は積雪に埋もれて工事ができない。経済性と迅速な施工とを両立させるため、我が国初となるバットレスダムが採用された。
 設計者は、内務省の推薦で東京から赴任した小野基樹(もとき)(1886-1976)。後に東京市水道局長となる人物である。貯水池の水圧を傾斜した薄いコンクリート遮水壁(床版)で受け、これを23基のバットレスと6本の横桁で支える。セメントの節減を重視した堰堤は、23年に通水式を迎えた。
 「笹流ダムの完成により、函館市民は慢性的な水不足から解放されます。緩速濾過(ろか)法という浄水方法を採用することにより、水質も向上します」。近江さんはそう強調した。
<中略>
 函館の水道創設事業は1888年(明治21年)着工、翌年完成。当初の給水人口6万人は、第2次拡張事業で20万人になった。笹流堰堤は1921年(大正10年)着工、23年完成。日本で初めての扶壁式中空鉄筋コンクリートダム。中央部の約130メートルが扶壁式、その両端が重力式。高さ約25メートル、堤頂の長さ約199メートル、有効貯水量約57万6000立方メートル。総工費約69万円。48年(昭和23年)から翌年にかけ、モルタル吹き付けによる風化防止工事を実施。83―85年、総工費約16億円をかけて改修が行われる。2001年、元町配水場(1889年完成)とともに「函館市の水道施設群」として土木学会選奨土木遺産に認定。


■三書樓書舗>目録
掲載者 三書樓書舗
掲載年月 2002/5/31
URL  http://www.tcn-catv.ne.jp/~sanshorou/A009/A009_06_06.htm
備考  
A009-06-504 [0200000587]
書名:  喞筒給水廃止ニ関スル意見【上下水道、衛生関係資料】謄写
著者名: 水道局工事課長 小野 基樹
出版社:
出版年: 大正15年7月17日
版: B5
巻数:
値段: \3000

書名:  鋳鉄管ノ流量ニ就キテ【上下水道、衛生関係資料】
A009-06-327[0200000608]
著者名: 小野 基樹
出版社:
出版年: 大正七年六月
版: B5
巻数:
値段: \4000



■日本のダム(便覧2003)>笹流
掲載者 日本ダム協会
掲載年月 2003/07/10
URL  http://wwwsoc.nii.ac.jp/jdf/Dambinran/binran/All/All_0014.html
備考  写真2
日本初のバットレスダム
大正12年竣工。日本初のバットレスダム。後に東京の小河内ダムを設計する小野基樹の設計。バットレスダムとしては、堤高は国内第2位、堤頂長は第1位。昭和59年度に改修工事を完了。「函館市の水道施設群」として土木学会選奨土木遺産2001に選定された

リズミカルな景観
通常ダムは威圧感がある建造物だが、バットレス形式のため軽やかでリズミカルな景観を生み出している。
憩いの場
ダムの前庭広場は樹木と緑の芝生に覆われ、古くから「赤川の水源地」として親しまれた。春は桜、秋は紅葉の名所として数多くの市民が訪れる。
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