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北  極  探  検  史

摘要 一行目 探検年 探検者(国)
二行目 地域
三行目以下 解説、◇は参考文献
北極探検タイトル
First edited 1998/04/10
Updated 2001/05/25 探検記録65件を収録
1596-97年 バレンツ(オランダ)
ノバヤゼムリア探検
最北緯度79°40´
ディスカバリー号は、ノバヤゼムリア島北端で流氷にかこまれ、押しつぶされた。乗組員は氷上で越冬し、徒歩とボートで脱出しようとしたが、多くのものが遭難死した。後にバレンツ海と呼ばれる。
◇「北極探検」ピエロ・ベントゥーラ/ジアン・パオロ・チェゼラーニ、評論社1981
◇「極地の探検・北極」 加納一郎著 時事通信社(1960)中野図書館
 以下の最北緯度記載の記録も同じ文献より

1607-10年 ハドソン(英)
ハドソン湾最北緯度80°23´
80頓の帆船ホープ・ウェル号に乗り、グリニッジを出発、グリーンランド東岸に沿い北緯73°まで北上。再度挑戦し北緯80°23´に到達。その後、ハドソン湾から極域をめざす途上、乗組員の反乱で非業の死。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)

1733- ベーリング(ロシア)
ベーリング海域
第二次カムチャツカ探検隊(主力約500名の隊員)は、カリーニンを出発、シベリアに向かい1735年ヤクーツクに到着。1740年聖ピョートル号、聖パウェル号ら船団が出航。アラスカ沿岸に至り帰路の途上で1741年ベーリング病死。同年8月ペトロパウロフスク帰着。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)『一枚の地図の謎・ベーリングの最期』

1773年 ヒップス(英)
スピッツベルゲン
最北緯度80°48´

1806年 スコアズヒー(英)
グリーンランド海
最北緯度81°30´

1812年 ゲデンシュトトロム、コジェウィン、プシェニツィン、サンニコフ(露)
ノボシビルスク諸島
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)

1827年 ウィリアム・パリ またはバーリーと表記(英)
スピッツベルゲン最北緯度82°45´
この到達記録はその後長い間破られなかった。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)

1845-48年 ジョン・フランクリン卿(英)探検隊
メルヴィル湾
士官と水兵105名をのせたエレプス号とテラー号は航海に出てから行方しれずとなった。その後10年間にわたって40もの捜索隊が投入されたが発見できなかった。12年後にようやく探検隊のわずかな遺品、メッセージが発見された。推測によれば、1845年ビーチー島で越冬、1846年フェリックス岬で越冬するが夏になっても船が閉じこめられたままになって1848年4月船を放棄、下船。氷上をカナダ沿岸をめざすが、500マイルも歩き続けた果てに力つきて全員が次々に倒れていった。この悲劇の事情は現在も明らかにされていない。
◇「極地に逝ける人々」ド・ラ・クロワ著、奥又四郎訳、新潮社(1957)早大図書館
 『エレプス号とテラー号の謎を秘めた遭難』
◇「極地の探検・北極」加納一郎 時事通信社(1960)早大図書館
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)『マックリントックの発見・北西航路開発の犠牲者フランクリン』

1850-54年 マックリューア
北西航路発見
フランクリン卿の探検隊捜索のインベスティゲータ号

1861年 アイザック・ヘイス(米)
北緯81°35´到達
1853年、フランクリン卿の探検隊捜索のためアメリカ政府の委嘱で探検家エリシャ・ケント・ケーンが極点に向かう。フンボルト氷河を発見し、ケネディ海峡に達する。乗ってきたアドバンティス号を氷塊から切り離せなかったため、船を捨てソリとボートだけでようやく帰還。ケーン探検隊の一員だったヘイスは再び北極点を目指し北緯81°35´に到達する。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1861年 オットー・トレル(スエーデン)
北極点を目指すが失敗
エオルス号とマグダナリ号からなるスエーデン探検隊は、スピッツベルゲン北岸沿いに北上しノース・イースト・ランド調査を行っただけで帰還。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1868年 カール・コルデワイ(ドイツ)
北極点を目指すが失敗
1868年と1869年の二度にわたって北極を目指したが、パリのたてた記録を破ることはできなかった。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1871年 チャールズ・ホール(米)
北極点を目指すが失敗
ポラリス号はニューヨークを出発、スミス海峡からリンカーン海のN82°11´に達した後、越冬。翌年再び北進に失敗し、船は氷塊上に持ち上げられ横倒しに。氷塊が割れ船をのせた氷が漂浮してしまい二つに分かれた隊員は漂流をつづけ1873年4月と6月に幸運にも捕鯨船に出会い救助された。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1872-74年 オーストリア・ハンガリー帝国北極探検隊
フランツ・ヨーゼフ・ラント発見
カール・ヴァイプレヒト海軍少尉、ユーリウス・パイヤー陸軍中尉ら24名が乗り組むチゲットホフ提督号によって
◇「氷と闇の恐怖」クリストフ・ランスマイヤー、中央公論社(1998)中野図書館

1875年 マルカム(英)
北氷洋
最北緯度83°20´ ジョージ・ネアズ大尉が率いるイギリス探検隊はポーツマスを出発、1876年そのマーカム支隊がN83°20´に到達。帰還するまでに17カ月を要した。ネアズのThe North pole unpracticable ! 「北極は手におえない」という結論はイギリスで失望とともに批判された。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1878-79年 ノルデンショルト(スエーデン)
北東航路初通航
1868年ソフィア号につづき、1872年にはウェガ号でパリ島を経由してN80°42´に到達。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1879-81年 ジョージ・デ・ロング
ジャンネッタ島、ゲンリエッタ島、ベンネト島
当初はニューヨーク・ヘラルド社のベネットが、行方不明のノルデンショルト探検隊を捜索するためにジャンネッタ号を派遣。サンフランシスコ湾を出航。その後、極地到達をめざすが、9月には氷に閉じこめられ北西へ漂浮しつづけ2回の越冬。この間、距離にして2、500キロを漂浮。1881年5月にノボシビルスク諸島の北方に島を発見したが6月には船が氷によって破壊され沈没。探検隊は5台のソリ、カッター船2艘、捕鯨用ボート1艘をひきノボシビルスク諸島に向かって行軍するが、隊長と大部分の隊員は遭難死。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)『蜃気楼かそれとも陸地か・ロングの栄光と死』
◇「北極探検」ピエロ・ベントゥーラ/ジアン・パオロ・チェゼラーニ、評論社1981

1882年 ロックウッド(米)
北氷洋
最北緯度83°24´

1893-95年 ナンセン(ノルウェー)
北氷洋 最北緯度86°13.6´
シベリア海からグリーンランド・スピッツベルゲン間の海峡へ流れる海流に船を乗り入れ、極域の未知の領域に達しようととして特殊構造のフラム号を建造。1893年6月ノルウェーを出発。1895年1月北緯84°05´の地点でナンセンとヨハンセンが船を離れ極点を目指した。4月に緯度86°13.6´に達した後、帰路につき、途中越冬し1896年6月フローラ岬に到着。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)『未来の国への旅行者・探検家ナンセンの栄光』

1897年 サロモン・アンドレー(スェーデン)
シュピッツベルゲン〜N83°E25°
3人乗組の気球アドラー号で7月11日に出発した以降、行方不明。33年後の1930年ノルウェーの探検船ブラドヴァーグ号がホワイト島で遺品と遺体を発見。メモによると7月14日に不時着し、シュピッツベルゲンに戻る行軍で10月に遭難死したらしい。遺品の中にあったカメラのフィルムが現像された。
◇「極地に逝ける人々」ド・ラ・クロワ著、奥又四郎訳、新潮社(1957)早大図書館
『アンドレーの無謀な気球探検行』
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)『気球で北極横断を企てたアンドレーの悲劇』

1899-1900年 カーニ(イタリア)
北氷洋 最北緯度86°34´
アブルッツィ公爵を隊長とするステラ・ポリャレ号第一次イタリア極地探検隊は、クリスチャニアを出発、テプリツ湾岸で越冬。翌年ウムベルト・カニーが犬102頭、ソリ13台をつらねて4月にN86°34´到達の記録を樹立。飢えと疲労で全滅寸前にテプリツ湾にソリ2台犬7頭だけで帰着。隊の1/3が死亡。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1900年 トーリ(露)
サンニコフ島発見をめざして
ザリャー号が幻のサンニコフ島発見のために、1900年6月ペテルブルグを出航。1902年にはベンネト島には到達するが、サンニコフは見つからず、遭難死。その後、いくつもの探検隊が派遣されたが、結局存在しないことが確認されている。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)『幻の島を追跡した探検家トーリの死』

1901年 ボルドウィン(米)

富豪ジグラーの支援を得てオスロを出航、アルジェル島ジグラー岬で越冬。アメリカとノルウェー隊員に諍いがあり失敗。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1903-05年 アントニオ・フィアラ
北極点をめざす
再び富豪ジグラーが支援するアメリカ号はノルウェーからゼムリア・フランツ・ヨシフ諸島からテプリツ湾で越冬中、暴風のため沈没。ソリによる二回の北上を試みるがいずれも失敗し、さらに越冬。1905年フィアラは最後の挑戦によりN82°まで達したが極点征服をあきらめた。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1903-05年 ロアルド・アムンゼン(ノルウェー)
北西航路初通航
喫水わずか3mの47トン小艇ヨーア(イエアとも称す)号に6人が乗り組みオスロを出発、ランカスター海峡、ビーチー島を経てギョーム王陸地に到達、越冬ののちマッケンジー河口で再び越冬し1906年8月ベーリング海峡を通過し北西航路の完全な突破を果たす。
◇「北極探検」ピエロ・ベントゥーラ/ジアン・パオロ・チェゼラーニ、評論社1981

1906年 ロバート・エドウィン・ピアリー(米)
北氷洋
最北緯度87°06´ ピアリーの最初の探検は1898年ウィンボード号によるスミス海峡経由で行われた。この年は氷塊が多く、船はジェルウィル岬で越冬し数度橇によって北上を試みる。1899年船が帰還した後も残留し橇によってN83°50´まで達する。
1902年には連続四回越冬したスミス海峡パイヤー湾を出発、N84°17´まで達した。
1905年探検船ルーズベルト号で北に向かい橇によって翌年N87°06´到達の記録を達成。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1906-09年 ウォルター・ウェルマン(米)
気球による挑戦
1906年と1909年の二度にわたってアメリカのジャーナリスト、ウェルマンが試みたが失敗
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1908-09年 ロバート・エドウィン・ピアリー(米)
北極点到達
ルーズベルト号で冬の到来前にに氷海の北に入り、翌年の早春にエルスミア島コロンビア岬を出発し、極点の手前153マイルまでルートを作り、その後、黒人のヘンソンと二人(4人という文献もある)のエスキモーとで橇を使って5日間の強行軍で4月6日N89°57´に達しこの日北極点にアメリカ国旗を打ち立てた。ピアリーは23年目に悲願を達成した。
位置測定を記録した資料がないため、一時は北極点到達を疑問視されていたが、現在は公認されている。また、900キロの往路37日を帰路16日(47キロ/日)で戻った点は、現在なお疑問視する意見もある。なお、後年専門家の計算によると、ピアリーの到達点はN89°55.24´であり、厳密には北極点ではなかったとされる。
1908年のクックの北極点到達は認められていない。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料
◇「北極探検」ピエロ・ベントゥーラ/ジアン・パオロ・チェゼラーニ、評論社1981

1910-12年(参考)ローアル・アムンセン(ノルウェー)の南極点到達
 南極探検は、イギリスのスコット隊とノルウェーのアムンセン隊との二つの探検隊が同時に極点をめざしたこと、アムンセン隊が無事に到達する一方、スコット隊は遅れて南極に到達しさらに帰路に全滅するという悲劇で幕を閉じたこと、の二点で冒険史上に”光と影”の象徴として残ることとなった。同時進行のかたちで書かれた下記資料は、大変よくまとまっている。
 北極点初到達をめざしていたアムンセンは、ピアリーに先をこされたのを知り、密かに南極点初制覇に目標をかえ1910年8月フラム号でオスロを出航。南極大陸クジラ湾に翌1月到着。補給デポの準備を行い越冬し、同年10月アムンセンを含む5人の隊員が出発。「悪魔の氷河」越えや吹雪・風雪に耐えて1500キロを踏破し1911年12月14日南極点に到達。帰路も順調に辿り1月25日には基地に帰着。3月7日にはオーストラリア南端のホバート港に戻り、南極制覇が世界に知らされた。
 一方のスコット隊の行程は、1911年11月マクマード湾基地を10人の本隊が出発。最終攻撃隊5名が翌年1月17日に到達し、アムンセン隊の先着を知ることとなる。馬橇を輸送手段としたが、往路ですでに全部の馬を亡くし隊員自身が橇をひく負担と怪我で帰路途中で二名が死に(うち一名は自殺)、スコットと残り2名も3月19日、基地に最も近いデポの手前20キロ地点で動けなくなり全滅。越冬後の11月に捜索隊がスコットの最後のテントを発見。探検隊を回収したテラノバ号は翌年2月にニュージーランドに着き、この悲報が世界に流れた。本国への帰還は7月となって、3年間にわたる敗北の遠征に幕を閉じた。
◇「アムンセンとスコット/南極点への到達に賭ける」本多勝一著 教育社1986
(この稿は1998/10/03作成)

1912-14年 ブルシーロフ船長(ロシア)
フランツ・ヨーゼフ群島〜N82°40´
海豹や白熊をとるためにペテルスブルグから8月に出航した聖アンナ号(乗組員25名)が、10月密氷群に閉じこめられ北に流され越冬。1913年も2度目の越冬を余儀なくされ1914年春、乗組員の半数がフランツ・ヨーゼフ群島フローラ岬へ出発。アルバーノフと他一名が8月に聖フォカ号に救助される。その後、ロシアとノルウェーは聖アンナ号を捜索したが発見することはできなかった。
◇「極地に逝ける人々」ド・ラ・クロワ著、奥又四郎訳、新潮社(1957)早大図書館
『極地のとりことなった聖アンナ号の悲劇』

1912-14年 セドフ中尉(ロシア)
犬橇による挑戦(この時代最後の試みとされる)
聖フォカ号でアルハンゲリスクを出航、バレンツ海で氷塊に塞がれ越冬、1913年にはゼムリャ・フランツ・ヨシファ諸島グケル島で二度目の越冬。1914年には、セドフは病弱のからだで隊員二名とともに北に向かうが吹雪にまきこまれ絶命。聖フォカ号はその年の8月帰港したが、当時はその失敗がロシア海軍から批判された。後年、ソビエト時代になって勇敢な極地探検家として再評価された。、
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1918-25年 アムンゼン(ノルウェー)
北氷洋漂浮
1918年モード号でオスロを出発、チェルスキン岬で越冬1920年ベーリング海峡に達する。1922年には、ヘラルド島から漂浮を開始するが西に流され、1924年ついに北極横断を断念。
1925年には、アメリカのエルズワースとともにスピッツベルゲンから飛行艇によって北極点横断を試み、9時間後着水し救助される。この飛行は、北極調査に航空機が利用できることを証すことになった。
◇「極地に消えた人々/北極探検記」ワシーリー・パセツキー著 加藤九祚訳 白水社1969(新宿図書館)資料

1924年 ビンネー(英)
航空機 シュピッツベルゲン

1925年 アムンゼン(ノルウェー)
航空機 グリーンランド北方
スピッツベルゲン諸島のコングス・フィヨルドからドルニエ・ワール型飛行艇2機で離陸。1機は着陸に失敗して破壊し、アムンゼンらは残りの1機をなんとか離陸させたが不時着し幸運にも救助された。

1926年 バード(米)
航空機初到達 シュピッツベルゲン〜北極
フォッカー三発動機ジョセフィン・フォード号により、スピッツベルゲンのキングスベイ〜北極点を15時間で往復

1926年 アムンゼン(ノルウェー)、エルスワース(米)、ノビレ(伊)
飛行船初横断 シュピッツベルゲン〜北極〜アラスカ
ノルゲ号は5月12日北極点上空を通過し、アラスカのテラーに帰着。所要72時間
この飛行によってはじめて、ヨーロッパとアメリカが北極経由の空路で結ばれた。アムンゼンはその生涯において北西航路、南極、北東航路、北極開拓という四つの大事業を成し遂げた。

1927年 ウイルキンス(オーストラリア)、エイエルソン
航空機 アラスカ北方
単発の飛行機でアラスカ・バロー岬を出発し、N78°の氷上に着陸、海深を測定。帰路エンジン故障により11日間氷原をさまよったのち帰還。

1928年 ウィルキンス(オーストラリア)、アイエルソン
航空機 アラスカ・バロー岬〜シュピッツベルゲン
3度目の挑戦で成功。ロッキード単発機によって3500キロを20時間
◇「極地の探検・北極」加納一郎 時事通信社(1960)早大図書館

1928年 ノビレ(イタリア)
飛行船 シュピッツベルゲン〜北極
イタリア号は北極点到達後、帰路シュピッツベルゲン北方の野氷上に墜落、9人が氷上に投げ出される。世界各国が救援活動に赴き30日後、最初にノビレ隊長が一人で帰還したことに非難が集中。アムンゼンはラタム飛行艇でこの捜索に参加し遭難死。
◇「極地の探検・北極」加納一郎 時事通信社(1960)早大図書館

1931年 エッケナー(ドイツ)
硬式航空船 ベルリン〜フランツヨゼフランド
ツェッペリン伯号

1937-38年 イー・デー・ペパーニン隊(ソ連)
北極〜N72°まで漂浮冬営による観測調査
1937年5月から1978年2月までの9カ月間4名の隊員にる2、500キロ漂浮調査に成功。「SP1号」のソビエト観測基地となり、現在まで「SP17号」までを数える。
◇「北極探検記」ペパーニン、竹尾はじめ訳、聖紀書房(1942)早大図書館

1948-57年 ポール・エミール・ビクトール(仏)
グリーンランド・アイス・キャップ
グリーンランド・アイス・キャップで数回の地震学・地理学の調査探検、同じ試みを1959ー61にも実施

1952-54年 C・シンプソン海軍中佐隊
北グリーンランド(クイーン・ルイーズ・ランド)探検

1958年 W.Rアンダーソンの米原子力潜水艦ノーチラス号
北極点下を潜航

1959年 カルバート艦長の原子力潜水艦スケート号
北極点に浮上
1958年に亡くなったサー・ヒューバー・ウィルキンソンの追悼を行う。

1965年 ヒューとマイアトルのシンプソン夫妻、ロジャー・タフト、ビル・ウォーラス
グリーンランド・アイス・キャップ
アングマグサリクからセンレストレム・フィヨルドまでの440マイルのグリーンランド・アイス・キャップを40日間で踏破。犬は使用せずスキーと橇のみ。

1968年 ラルフ・プレイステッド隊12名(米)
北極点到達
3台のスノー・モビルを用いエルズミア島から北極点まで42日間で到達。氷上を辿って北極点に達した隊としては、1909年のピアリー以来2度目である。

1968-69年 ウォーリー・ハーバート
アラスカからスピッツベルゲンまで
バロー岬を2月に出発、航空機による補給を受けながら、1969年4月5日北極点に到達。5月29日にはスピッツベルゲンのフィップス島へ帰還。
◇「現代の冒険・上」クリス・ボニントン著 中村輝子訳 岩波書店(1987)中野図書館

1970年 G.モンツィーノのイタリア隊
北極点到達
犬ぞりで北極点に到達

1971年 デレック・フォーダム、J.アナーセンのイギリス・デンマーク合同隊
グリーンランド縦断
徒歩によるグリーンランド横断1400マイル

1974-76年 植村直己
グリーンランド横断
グリーンランドからアラスカまで7500マイルの単独犬ぞり踏破
◇「北極点グリーンランド単独行」、植村直己 文芸春秋(1978)中野図書館

1977-81年 ウォーリー・ハーバードとアラン・ギル(英)
グリーンランド一周
グリーンランド一周8000マイルを計画するが、1981年までに2600マイルを踏破

1978年 植村直己(1941-84)
北極点単独踏破
カナダのコロンビア岬から北極点までの450マイルを、17頭の犬だけと57日で単独踏破。今年1998年は20周年目であり、これを記念して東京板橋区の植村冒険館で「北極点に立つ」展(-9/15)を開催。
◇「現代の冒険・上」クリス・ボニントン著 中村輝子訳 岩波書店(1987)中野図書館
◇「極北に駆ける」植村直己 文芸春秋(1974)
◇「極北に燃ゆ」植村直己

1978年 池田錦重の日本大学隊
北極点到達
植村ルートのわずか東のルートから、彼より2日早く北極点に到達

1979年 D.シュパロのロシア隊
スキーによる北極点到達
スキーでヘンリエッタ島から北極点までの930マイルを77日間で踏破

1981-82年 ラヌルフ・フィンネスのイギリス地球横断隊
北極圏
南極を1979-82年にスノーモビルでまわったあと、北極をまわる

1984年 フィンランド隊
ソリによる徒歩到達
6人の隊員で2カ月半かけて5月20日到達

1986年 ジャン=ルイ・エチエンヌ
単独徒歩による極点到達
3月7日ワードハント島を出発し西経70°に沿い、5回のフライト補給を受けながら5月11日到達。
◇「たった一人の北極行」ジャン=ルイ・エチエンヌ、白水社(1989)早大図書館

1987年 風間深志
オートバイによる極点到達
ワードハント島から、サポート用スノーモビル・ソリの隊員5名。45日間。途中フライト補給4回。風間深志の本によると、極点到達では13隊目とのこと?このころからチャーター機によるノースポール観光ツアーが来ていたそうである。
◇「地平線への旅/バイクでやったぜ北極点」風間深志、文芸春秋(1989)新宿図書館

1989年 和泉雅子
女性で初極点到達
ワードハント島から3月9日出発、スノーモビル・ソリの5名の隊員とともに5月10日到達。途中6回のフライト補給。極点の氷原は一日8キロ移動するそうである。
◇「笑ってよ北極点」和泉雅子、文芸春秋(1989)新宿図書館
◇「私だけの北極点」和泉雅子、講談社(1985)新宿図書館
◇「マコさん北極を行く」和泉雅子、テレビ朝日出版部 新宿図書館

1997年 河野兵市
日本人初の単独徒歩横断、世界で3人目
1992年真冬にユーコン川中流の村に友人を誘って3人で耐寒トレーニングに出かけ、凍った川をスキーで歩いた。いきなり氷点下58度の大寒波に見舞われた。持参の防寒装備は役に立たない。このトレーニングの期間にオーロラに遭遇し、光のカーテンの幻想的な光景に言葉を失いアーツ・ウーツと歓声を上げた。1997年3月4日カナダ最北端のワードハント島を出発、想像を絶する試練と闘いながら、支援者の熱い想いと夢を励みにして北極点までの780kmを歩き、60日後の5月2日に日本人初の北極点単独徒歩到達を達成した。

1997年 大場満郎
単独徒歩横断
1994年から北極海横断を試みるが3年連続失敗し、1997年に成功。ロシアのコムソモレツ島から2000キロ122日間かけて極点経由ワードハント島へ。途中4回のフライト補給。この年は9隊(カナダ側から7、ロシア側から2)、うち日本からは一日早く極点到達した河野兵市とポーラー・フリー97隊。位置測定用アルゴス2台と緊急発信用イーパブだけを持つ。なお、北極海横断記録は、1989年のソ連カナダ隊、1995年の韓国隊。また大場は、1985年グリーンランド西海岸1400キロ単独徒歩、1986年北磁極往復900キロ単独徒歩、1987年カナダ北極圏2000キロ単独徒歩、1989年冬季シベリア・カトウニ川徒歩行など。
◇「北極の日本晴れ/氷の上を歩いて2000キロ」大場満郎、光文社(1997)新宿図書館

1998年 デービッド・ヘンペルマンアダムズ(英) ルネ・イエルネス(ノルウェー)
徒歩による北極点踏破
4月29日北極点到達。ヘンペルマンアダムズは、これまでに世界七大陸の最高峰と南極踏破をしており、今回で探検家の夢といわれる「グランドスラム」を達成。
◇「最高峰・極地を全制覇」朝日新聞1998/4/30

2000年 デビッド・ヘンペルマンアダムズ(英)
有人気球での最北飛行記録
6月1日、熱気球によって北極点まで20キロの地点に到達。 サロモン・アンドレー(スェーデン)が3人乗組の気球アドラー号でN83°E25°に到達(33年後に遭難が確認された)した1897年から、100年以上たっていることになる。
◇「北極点に気球で接近」 朝日新聞 2000/6/2 The Britannic Challenge

2001年 河野兵市
河野兵市リーチングホーム2001、遭難・遺体発見
北極点から故郷の愛媛県瀬戸町をめざす6年間 約1万5千キロの旅に、3月26日北極点をスタート。5月17日、カナダ・ワードハント島の北80キロの氷上で消息を絶ち、24日遭難が確認された。
河野兵市リーチングホーム2001


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