以下の原稿の無断掲載はご遠慮下さい。引用は自由ですが、クレジットを付けて行ってください。
連絡先:
takeda@psi.ch

注:原稿中の図は省略した。

 

サマータイムの導入は真に有益か?

(武田 靖 993月起稿)

 

サマータイム制の導入についての審議会の答申が政府に出され、いよいよまな板にのってきた。戦後すぐ一時施行されたがすぐ中止。その後何度となく話題に上って日の目を見なかった制度だが、決して死に絶える事はなかったようである。今度はまたぞろ、環境問題という錦の御旗を押し立てての登場である。

サマータイム制の導入に関して、政府の広報機関であろう「環境問題とサマータイム導入を考える国民会議」というのがある。国民会議とは言っても官製の機関である。ここが昨年、中央と地方で合計13回の国民会議を開催し、広く国民の議論を喚起したことになっている。その議事要旨や議事録の多くがインターネット上で公開されている。その内容を読むとずいぶんと議論がピンボケで、果たしてこんな議論を延々と続けていても良いのだろうかという感想をもった。

それは、筆者が81年からヨーロッパに住み、もうかれこれ18年もサマータイムを体験しているからである。その体験を踏まえて、サマータイムを考え、議論の一助としたく、筆を執った。以下にまずサマータイム制とはなんぞやを考え、それを基準とした時の、国民会議での議論の内容の陳腐さを紹介する。そして最後に小生自身のサマータイム制に対する考えを述べたい。

 

 

サマータイム制とは

サマータイム制とは、夏の日照時間の長い間ほぼ半年間、通常より時刻を一時間だけ前にずらして生活しようという制度である。ここではあえて「時間」ではなく「時刻」とした。つまり切り替える前の朝7時を切り替えて朝8時にするのである。すでにこの点から誤解が発生しやすいので、図にしてみた。(すぐ図を画くのは科学者としての質であり、嫌われるかも知れないが。)図の最上には絶対時間軸上での日の出と日没がマークしてあり、その間が日照時間という事になる。この軸の原点は一月一日の午前零時と考えて良い。次ぎが通常時間軸(逆に冬時間と呼ぶ事もある)で、現在日本国民はこの軸上で生活している。一番下がサマータイム期間中の時間軸である。一目で分かるように、単に一時間、図では左へずらしただけなのである。あるいは、日の出が一時間遅くなったと考えても良い。あるいはまさしく日の入りだけが夏になると遅れることで日照時間が長くなっていると考えても良い。

さて、あえて「時刻」をずらすとした意味がここにある。時間(タイム)という言葉は、日本語に限らず定義があいまいで、物理学的には、二つの時刻の間の間隔を表すほかに、時間軸上のある瞬間という意味もある。この事がすでに議論のピンボケさを発生させている。つまり、時刻が単にずれただけなのに、あたかも一日の時間が長く伸びるような錯覚に陥っているのだ。サマータイム制を取ろうが取るまいが、一日の時間は二十四時間に決まっていて、それには変更はないにも拘わらずだ。ましてや、日照時間が更に一時間長くなったり、夜の時間が一時間短くなったりするわけでもない。伸び縮みするのは、切り替え当日だけである。

議論の中でのその様な誤解は次節で紹介するが、ただ一つ例を上げておくと、「夏時間になると朝一時間長く寝られる」という議論がある。もしこんな事を本気で信じていたら、会社や学校に遅刻する事は必定である。なぜなら会社や学校も冬時間に比べて一時間早く始まるのだから。

国民会議の議論の中では、座長だけではなく各委員によってもこの点がしばしば強調されているのは事実である。しかし本当の意味で理解した上で考えていないせいか、混乱が多々みられる。地方での会議に呼ばれて意見を述べる地方委員に多いが、肝心の中央委員の意見の中にも、「ほら、また言ってる」と叫びたくなる事があるのも事実である。以下にその例をいくつか紹介しよう。

 

ピンボケな議論

夕方の日照が後まで伸びるので、余暇を野外で過ごす時間が増えるから良いという議論がかなり多くみられる。これは一見本当の様にみえるがこれも考えてみればおかしい。「野外で過ごす時間」ではなく、「野外で過ごせる時間」なはずである。しかし本当に夕方野外で過ごすのを日課としている人はどの位いるだろうか。この事は日本人の食習慣と多いに関係している。ほとんどの日本人には夕食が朝食や昼食よりも重要な意味をもっているはずである。「夕餉」という言葉がある様に、夕食の食卓を一家で囲んで過ごす事をモットーとしている家庭も多いはずだし、仕事から戻れない父親や熟通いの子供のためにそれができない不満を持つ主婦も多いはずである。また夕食に取る晩酌を楽しみ以上の人生の生きがいとまで言い切る男性も多くいる。ところが欧米人にとって夕食とは3食の中の一つなだけで、夕食を摂らないとなんとなく一日が終わらないなどという感覚は全くない。お腹がすくから何かを食べるだけである。だから暖かい食事を用意しない家庭のなんと多い事か。個人がそれぞれ食べたい物を食べる。チーズとパンを食べれば良い方で、りんごだけの人も多い。こんな食習慣だからこそ、仕事から戻った後の明るい数時間を戸外で過ごす事が十分可能なのである。日本人にそれができるだろうか。議論の中に「ライフスタイルを変える」という議論が頻繁に出てくるが、まずこの食習慣を変えることから始めなければ、彼らが言う余暇利用の実は決して上がらないだろう。

そもそも余暇利用に太陽の光がどうしても必要だという人はどの位いるのだろうか。余暇の利用なぞはそれこそ個人の問題で、どう使おうが、「私の勝手でしょ」というのが現代日本人だと思うのだが。

 

まとはずれな議論

もう一つまとはずれな議論を紹介しよう。

「朝の気温の低い時に通勤ができ、午前中の涼しい時間に仕事ができるので効率が上がる」という呑気な事を真面目に発言している委員がいる。(資料として気温の違いまでグラフにし添付してある。わずか0.5℃程度の差しかない。こういう事をするから化けの皮がはがれるのだ。) ではお聞きしたい。どうして自分は1時間朝早く起きて、時差出勤しないのですか? 通勤ラッシュの解消にもなるだろうし。

この様に、サマータイムとは全く関係のない事をメリットとして取り上げようという傾向が強く見られる。これは、前にも述べたように、サマータイム制そのものを誤解しているのか、あるいはサマータイムがなければ、こんな事も自分でできないのか。

逆の立場の人も同じ間違いをしている。それは「労働強化につながる恐れがある」のだそうである。もし日照時間に影響される仕事であれば、その可能性がないとは言えない。しかしそれでは冬の間に仕事を減らせば年間でチャラになるでしょう。農家の人達は長年そうやって生活をしているのだから。農閑期があれば農繁期があり、それらは確かに日照時間と大きな関係があるのだから。(勿論それだけではないが。)

こういう事がまとはずれであることを、どうしてだれも指摘しないのだろうか。

 

時差の問題

それではサマータイムを導入することでどう生活が変わるかという事になるが、一言で言って、「何も変わりません」というのが、長年経験した結論である。サマータイム制の意味を考えてみても、時間軸がずれるだけであるから、その生活への影響はそれほど大きなものではない。

勿論ゼロではない。それは年二回の移行時に時差が発生するからである。

海外旅行、特に欧米大陸へ旅行をした際に、時差の調節に苦労された方は多いであろう。当地への訪問者との会話にも必ず時差の問題は取り上げられる。この時差の調整はわずか一時間とは言え、人によっては大変苦労する。小生は若い頃は大した事はなかったが、年齢とともにこの時差の調整に苦労するようになった。サマータイムへの移行時の一時間の調整でも、完全に慣れるまでに3-5日かかる。

この事は国民会議の議論の中では、かなり軽視されている。委員の中には、「ドイツへ行った時にたまたまサマータイムへの移行と重なったが、それほど問題はなかった」という発言が見られるが、8時間も時差がある所へ移動した直後に問題がなかった訳はなく、それがたまたま7時間の時差になっただけだから気がつかなかったのである。

家畜の時差調整の事が述べられているが、家畜でさえ一日十分ずつ生活をずらしてなれさせるという言われている。つまり時差調整に6日間を費やしているのである。なぜ人間に影響がないと考えるのであろうか。

 

定量可能か

なんとかサマータイム制を導入したい人達(どうせ役人なのだろうが)は、なんとかその理由付けをしたがっている。しかもなんとなく本当らしく見せるために、数字を使おうとしている。そこで登場するのが、省エネ効果と温室効果ガスの低減である。座長に茅陽一氏を担ぎ出したのもそこに狙いがあるのであろう。とにかく数字、数字とかなりしつこく調査を求めている。確かに本当にそれが可能ならば、それ自身は悪い事ではない。そこでどこかのシンクタンクがひねり出した数値が上げられている。

まず省エネ効果として、各種照明需要と冷房需要を計算している。その結果、原油換算で約87kl削減できるそうである。しかし算出方法があまりにも稚拙だ。例えば、自動車の照明がいらなくなり、その分ガソリンが少なくて済むと実験まで行って求めているが、ホントウ?と疑いたくなってしまう。自動車の照明は、昼間でも走行中は点灯しよう、というのがヨーロッパの傾向なのである。それは、走行中である事を他人に知らせる必要があるというのである。少なくも冬時間は点灯するのが義務になっている所が多い。これでは夏と冬で打ち消しあってしまうではないか。

次に炭酸ガス削減効果は多くて70tと出ている。これはどうせ原油量から推計しているのであろう。(巻末に資料と書いてあるがインターネットでは見えない。)

議論の中にも時々出ているが、そもそもこの数値にどれほどの信頼性があるのか。専門家でさえも非常に怪しい数字である事を議論の中で発言している。仮に真面目に出した数値だとして、これには一体どの程度の誤差が含まれているのだろうか。この炭酸ガス削減量は京都会議での削減目標量の1%にしかならない事を認めているから、仮にそうだとすると、誤差を含めると、恐らく削減量0%すなわち、効果なしという事になるであろう。そもそも多少数値をいじる人間ならば、差がわずか1%しかない場合には、自信をもって「効果はない」というのが常識というものだ。茅さん、なめられてはいけません。

ところで、この様な量を定量することは一体原理的に可能なのであろうか。日照時間に限らず、エネルギーの消費量に影響する変数は恐らく無限にあるだろう。専門的には多変量という。ただ多いだけでなく、どんなものが影響を与えうるかすらはっきりしていない。しかもそれらがどの様に関係しているかなど、調べようとしているシステムの内容すら分からない。しかも、ほとんど100%の確実性をもって、それらが非線形的にからんでいる。現代の科学では非線型現象は解決の方法すらみつかっていないのである。判りやすい例は地震の予知である。地震の発生に寄与する種々の過程は、それらが非線型的に関係し合っているために、予知は原理的に、現在の科学では不可能なのである。それと同じ事で、不可能なことを一見可能なごとく数字を出して、材料に使おうとしても、一般国民の臭感覚はだませないません。(こういう手段を使おうとする所がいかにもお役人のやり方だとすぐばれてしまうのです。) 科学者は、判らないことは堂々と判らないと言えば良いのです。判らなくても物を作らなければならない技術者とは違うのですから。

 

「やってみよう・だめなら戻そう」

サマータイム制の本質は、時間軸の移動なのである。これはすなわち、一億二千万の国民に等しく作用する事柄なのである。老若男女、血液型、好き嫌い、どれ一つ差別はできない。

こんな重要なことを「やってみよう。だめなら戻そう」などと簡単に考えて良いのだろうか。そうでなくても産業界では、移行のためのコストがどうだとか騒がしいのである。

「ライフスタイルを変えよう」という呼びかけもある。やってみてだめだったらライフスタイルも元に戻すのですか?

こんな効果があるかないか判らない程度の微量な効果の場合には、ほとんど半永久的に続けない限り、その効果は積み重ならないと思うのは悲観的にすぎるだろうか。だからこそヨーロッパでは反対が結構あるにも拘わらず中断しないのです。時間軸という人間の全ての活動に大きな影響を持つものを、その程度の覚悟で取り掛かられては、たまったものではない。

 

さて、では最後に筆者の意見をまとめよう。

まずサマータイム制で生活に影響があるか?「何にも変わりません。」これは前にも書いた。

では、サマータイム制は良いか悪いか?「デメリットはあまりない。しかしメリットはほとんどない。」

「あまり」と「ほとんど」の違いは多少の説明を要する。メリットはこれまで述べてきたように、定量化することは不可能だから、あるともないとも言えない程度のメリットしかない。デメリットは、年二回の時差の発生である。これは体調だけでなく、屋内外の時計の調整。(これはパソコンや車を入れると全部で十数個になる。ディジタルは戻すのがやっかい。)移行日の人との約束には神経を使う。その程度なのです。つまり慣れれば同じです。

この程度が皆本当に我慢できるのであれば、実行すれば良いと思う。(筆者は我慢する価値はないと思うのだが。) ただ一旦始めたら相当期間継続しないと無駄です。多分50年くらいの時限立法とし、条文の中に改正できないような構文を入れておくくらいの覚悟はいるでしょう。

 

(しかし、どうしてサマータイム制まで真似しなくちゃならないのかねえ、日本人は。前に止めたのは、特別な理由はなかった。つまり日本人には合わなかったのです。相性なんて言う説明のむずかしい理由で。それくらい判ってないのかね。)

inserted by FC2 system